とりあえずメモ

9月 02 2011
今日、九月二日は、昭和七年に爆弾で片足を吹き飛ばされた重光葵がアメリカの戦艦ミズリー号の甲板に立ち、我が国の降伏文書に調印した日である。

この日から「戦後日本」が始まり、この「戦後体制」との戦いは今も続いている。何故なら、我が日本は、戦前と戦後の区別無く一貫しているのに、戦後体制で旨味を占めた日本人は、戦前を否定して断絶したものと捉えているからである。

重光葵が守ろうとしたのは、一貫した由緒ある歴史と文化をもつ我が国家と日本民族の連続である。
 
ところで、重光の片足のことであるが、昭和七年の上海における天長節の式典に参加したときに、爆弾を投げられて付け根から失った。

爆弾を投げ込まれたその時、檀上で天長節を祝う国家斉唱中だったので動くのは不敬であるとして重光は動かなかったという。また動かなかったのは重光だけで はなく、檀上にいた白川義則司令官、野村吉三郎司令官、植田謙吉師団長など全員が直立したまま国歌を歌い続けていた。そして、白川死去、重光片足切断、野 村右目失明、植田足指切断の傷を負った。

あの時代の日本人、とてつもないではないか。自分が国歌斉唱中に爆弾を足下に投げ込まれたとき、とっさにどうするかを思えば、直立して歌い続けた日本人は「とてつもない」としか言いようがない。
 
その爆弾が足下に転がっても直立して国歌を歌い続けた重光葵が、九月二日、戦艦ミズリー号で降伏文書に調印し、それからマッカーサーと戦った。
 
なお、その時重光葵が見た星条旗は、嘉永六年(一八五三年)、ペリーが浦賀に来航した際に乗船していた旗艦サスケハナ(2450㌧)に掲げられていた星条旗である。

そして、赤坂にある在日アメリカ大使館の現在の応接室には、その旗艦サスケハナの一メートル大の模型が飾られている。

しかし、この応接室を訪れる日本人の中に、飾られている外輪帆船の模型を見てサスケハナと見分け、更にそのサセケハナに嘉永六年、ペリーが乗って浦賀に来たと分かるものが何人いるであろうか。

アメリカ人は、このような歴史の記憶の仕方をする。従って、東条英機ら七名の処刑を今上陛下のお誕生日に行った。

そこで、我々日本人も「記憶の民」にならねばならないと強調したい。しかし、我々の記憶は、戦利品や相手に屈辱を与えたときの旗などの「見せびらかし」のためではない。

我々が失ってはならない記憶は、六十六年前の九月二日、敵の戦艦ミズリー号の甲板にいた重光葵全権の体内に渦巻いていた日本人の誇り、日本人の精神、即ち「教育勅語」だ。

我々は、「教育勅語」に帰り、この精神を記憶しなければならない。

以上、重光葵に関しては、畏友の福富健一氏に教えられた。丁度、私が敗戦直後の占守島の戦いと祖国から切り離された満州の関東軍と在留邦人の運命に思いを馳せていたとき、著者の福富氏から、まことに時宜をえた重光葵の次の評伝が届いたのである。

福富氏と私は、平成六年に解党してしまった共産・左翼勢力と戦うことを党是とした民社党の同志である。諸兄姉に、福富氏の書き下ろした重光葵を是非読んでいただきたいので、次にご紹介する。

  福富健一著
 「重光葵 連合軍に最も恐れられた男」、講談社、1700円

なお、本書の表紙の帯にはこう書いてある。「苦難の時代の日本人に指針を示す 昭和再興の頭脳と胆力」「今この男が生きていたら 原発事故も大不況も恐くない」

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